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金ヶ崎は歴史上の人物にまつわるエピソードが多いところです。
金ヶ崎に訪れた歴史人物を紹介していきましょう。 |
延元元年(1336年)10月、後醍醐天皇は新田義貞に命じ、尊良親王、恒良親王を奉じて北陸道に下向せしめた。一行は、 氣比神宮の大宮司気比氏治に迎えられ、その居城、金ヶ崎城に拠られた。しかしここも足利軍のせめるところとなり、総大将高師泰は兵6万余りを以て陸海より 金ヶ崎城を攻撃、延元2年正月、杣山城の瓜生保等兵5千余の応援も功を奏せず、3月6日遂に落城、尊良親王、新田良顕(新田義貞嫡子)以下将士300余人 が共に亡くなられたと伝えられています。 |
尊良親王(たかながしんのう)− |
後醍醐天皇の一の宮とされる。母は二条為子。二条家は歌道にゆかりが深く、親王も詩歌に秀でていたという。1327年、中 務卿。鎌倉幕府打倒をねらった元弘の乱(1331年)で捕らえられ土佐に流された。1333年、土佐を脱して兵を肥前に挙げ、九州の打幕勢力を束ねる役目 を果たしたといわれている。足利尊氏追討では、新田義貞らとともに東国に赴いている。金ヶ崎での潔い最期は太平記に記されている。本殿の背後の高台には 「自刃見込地」の石碑が立っている。 |
恒良親王(つねながしんのう)− |
母は後醍醐天皇第一の寵姫阿野廉子(あののれんし)。1334年1月、13歳で後醍醐天皇の皇太子となる。1336年に尊 良親王・新田義貞らとともに北陸へ下る。翌年三月、金ヶ崎城が落城した際に脱出したが、足利軍に捕らえられて京都に拘禁、翌年に毒殺された『太平記』によ れば、北陸に下る直前に、後醍醐天皇から皇位を譲られたという。 |
新田義貞(にったよしさだ)− |
八幡太郎源義家の三男・義国を先祖とする。義国は下野国(栃木県)足利に移住。義国の子のうち長男義重は上野国(群馬県) 新田に移り住み、新田氏を名乗って新田氏の祖となった。一方、弟の義康は足利に残り足利氏を名乗った。ともに棟梁的な立場を固めていたが、新田氏は鎌倉政 権下では冷遇されていた。 |
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