ホーム > 歴史と人物 > 松尾芭蕉と金ヶ崎



 江戸時代前期の俳諧師で芭蕉(はせを)は俳号。
 寛永21年(1644年)に伊賀上野の赤坂(現在の三重県上野市赤坂町)に生まれる。
 幼名は「金作」といい、成長して藤七郎・忠右衛門・甚七郎などと名乗った。

旅によく出かけ『野ざらし紀行』・『鹿島紀行』・『笈の小文』・『更科紀行』などの紀行文を残している。



 「おくのほそ道」は、元禄2年3月江戸を出発し、大垣を立つ9月までの約160日間、現在の関東・東北・北陸・東海の1都12県にわたる旅について書かれた本だよ。
 この旅で元禄2年8月に敦賀を訪れていて、後にも先にも敦賀を訪れたのはそれだけだったみたい。芭蕉にとって月をみることが旅の一つの目的だったので、敦賀での仲秋の名月を楽しみにしていたと伝えられているんだ。
 「おくのほそ道」には、芭蕉の句が50句あって、このうち福井県内で5句、そのうちの4句が敦賀で詠まれているの。また、敦賀には「おくのほそ道」に載っていない芭蕉の句が多く残されていて、市内には句碑が10以上存在しているんだよ。
 「おくのほそ道」には、敦賀の後の足取りの記述はなく、一気に最終目的地・大垣へと向かい完結する。そのため、敦賀は「おくのほそ道」の事実上の終焉の地でもあるといわれてるの。



「おくのほそ道」には載っていないけど、芭蕉の金ヶ崎を詠んだ句があるんだよ。

 【沈鐘伝説】
 南北朝時代の延元元年(1336年)、新田義貞らの南朝軍は、後醍醐天皇の皇子の恒良親王、尊良親王を奉じて北陸に下り、金ヶ崎城に入った。しかし、足利軍との戦いに破れ、義貞の子で大将の義顕は陣鐘を海に沈めた。のちに国守が海に海士を入れて探らせたが、陣鐘は逆さに沈み、龍頭(梁に吊るすために釣鐘の頭部に設けた竜の頭の形にしたもの)が海底の泥に埋まって、引き上げることができなかった。

『芭蕉と敦賀』より

芭蕉は、宿のあるじからこの話を聞いて・・・

月いつこ鐘は沈るうみのそこ

と詠んだんだって。
(この句は金前寺の境内に立つ句碑・鐘塚に刻まれているよ)
※昭和20年7月米軍空爆により堂宇寺宝の一切を焼失、以来再建の着手現在に及んでいるんだ。